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コラム「福」

 

 

僕はいつだって、彼女を泣かせたかった。

しかし彼女はいつでも毅然とした表情で、踵を返すのみだった。僕はどうしても、その瞳の光を、真直ぐに結ばれた唇を、張り詰めた頬を、歪ませたかったのだ。歪んだ彼女から溢れる涙を、掬ってみたかったのである。

 

 

幼い頃からその試みは行われていた。彼女がお気に入りでいつも持ち歩いていたリカちゃん人形を隠した。自慢の長く艶々した髪の毛を結ったおさげを鋏で切った。ままごとの父親役を断った。丁寧に作られた泥団子を踏み潰すなどした。

しかし彼女は泣かなかった。じっと僕を見つめ、あっちにいってよ、と言うばかりで、泣きなどは絶対にしなかった。叩いたりなどすれば、泣いたのかもしれないが、人に暴力を振るうことだけはしてはいけないと、母から懇々と言い聞かされていた僕は、それだけはしなかった。

 

中学校にあがったとき、僕等は同じクラブに入った。そして、14になったころ、僕は、彼女といつも一緒にしていた下校をやめた。あの日、彼女はいつものように体育館の入り口で、自転車にまたがりながら、僕をまっていた。大きめの体操着が、体の成長を覆い隠しているのがなんとも不釣り合いな後ろ姿を眺めながら、僕はその横をクラブの仲間と通り過ぎた。僕の声を聴いて、ヘルメットをかぶった小さな頭がこちらを振り返るのがわかった。ずっと過ぎた後、後ろを振り返ってみても彼女は泣いていなかった。ただ、自転車をこぐわけでもなくその場から動かなかったのを覚えている。

 

 そのまま、僕等は高校生になった。彼女は、いよいよ女らしさを増し、少し時代遅れのセーラー服がよく似合っていた。未経験なのに始めた新体操のおかげか身についた彼女のしなやかな身のこなしが、僕の焦燥感を掻き立てていた。

その頃僕は、早生まれで成長が遅かったつけが周り、背が急激に伸び始めていた。

そして、始めて女の子に告白をされた。

恋人ができた、と教えたとき、彼女は、ふうん、と言っただけでそっぽを向いた。やはり彼女は泣かなかった。泣くと思い込んでいた自分勝手な思い上がりを僕なりに恥じた。そういうことか、とも妙に腑に落ちた。彼女は、クラブの時間だからもう行くねと言って、廊下を駆けていった。

しばらくして、僕と恋人が寝たという噂がひろまった。そうして、もう彼女と目も合わせることもなくなっていた。

 

 

最後に交わした会話は、卒業式だった。離れたくないと、泣いている仲間たちの肩をたたいて慰める彼女の手を引いて少し離れたところに呼んだ。

僕は手短に、東京に行く、とだけ伝えた。彼女は、僕の目をじっと見つめた。幼い頃と変わらない瞳の光があった。静かに頷いた後、頑張ってね、とただそれだけいった。繋いだままの左手が熱く、僕が泣きそうになった。先に手を離したのは彼女で、妙にそれがほっとしたのだった。

 

 

成人式で彼女を見かけた時、声をかけることができなかった。向こうからも声をかけてくることはなかった。それがお互いにとってたぶん1番悲しい方法だと知っていたのに、僕らが言葉を交わすことはなかった。彼女の振袖の裾で艶やかに咲く椿が妙に瞼の裏に焼き付いてどうしようもなく苦しかった。

 

 

 

それからずっと経ってから、僕は結婚した。会社の後輩の気が弱く、優しい女だった。可愛い子供にも恵まれた。女の子1人と、男の子が1人。それでも、僕には彼らと生涯を共にする資格がなかったらしい。あの優しい人は、心があまりにも澄みすぎて、この世界で生きるには少し真っ直ぐ過ぎる人だった。どんどん病んでいくあの人から僕は逃げ出した。自分までが蝕まれるような、恐ろしい混沌と、後悔。妻の実家に頭を下げたときの首の皮を引きちぎられるような、あんな気持ちがあるなんて、僕はこの歳になるまで知らなかった。

 

孤独がこんなにも、僕らのそばにいて、いつだって共にあることを知らなかった。5年前に他界した父に会いたい。まだ病まれていなかったころのあの人に会いたい。息子と娘に会いたい。姉さんと新しくできた赤ん坊に会いたい。

 

彼女に会いたい。

 

 

ああ、彼女は笑うだろうか。

 

こんな僕を見たら。

 

どうか泣いてはくれないだろうか。

馬鹿な人ね、可哀想。と思い切り同情してくれればいいのに。

 

 

 

何もなくなった僕が地元に帰ると、彼女は、あの頃と何も変わらないそぶりで、庭の花に水を遣っていた。僕のことを見るや否や、驚いたような顔をして、駆け寄ってきた。久しぶり、とか、今何してるの、とか、たわいもないことを話す彼女の声にゆっくり耳を傾けていた。

 

 

ずっと言えなかったことがある。

 

 

僕がそう切り出すと、君の顔はみるみる歪んだ。

 

 

やっとその一言が言えたとき、君は泣いた。

 

 

 

これが僕の求めていた幸福なのだと。

 

 君の塩辛い涙を掬い舐めあげながらそれだけを思った。

 

 

 

終わり