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コラム「夜」

 

 

幼い頃、私の母は寝る前に絵本を必ず一冊読んでくれた。
一冊だけ読んでほしい本を選べるのだが、それはだいたい五つ離れた妹が選ぶのだった。そうして、私と妹は片方ずつ母の腕の中に入って、母の胸にぴったり頬を寄せて読み聞かせを聞いたものだ。母は、美しいお姫様はしとやかに、強い狼は声を屈めて絵本を読んだ。日が暮れるまで外で遊び呆けた私たちは、絵本に夢中になっているうちにいつの間にか眠りについている。まどろむ私の頭を撫でながら、よく母は言った。良い子はもうお休み、と。




目が覚めた時、彼はまだ寝ていた。
夏の終わりの夜は、少し肌寒くて、そのくせ乱れた髪が首にまとわりつくような湿気を含んでいる。私は床に捨てられたシャツを肩に羽織ると、手探りで煙草を探して火をつけた。紙が焼ける音がする。ライターの灯火に浮かび上がる時計の針は、23時を過ぎたところを示していて、まだ夜は始まったばかりなのだ、とぼんやり思った。暗い部屋に、月の光が差して、煙が透ける。プールの底に沈んだ時の光景かのように、光と影が交わっては揺れて、視界の端でゆらゆらとする。


就職を機に上京して5年、半年前に二十二歳になった。この5年間で、お酒を知って、煙草を知って、自分より骨ばった生き物を知った。毎月のように来る母親からの手紙も今は屑篭の中で丸まって眠っている。地元の友達とも少しずつ疎遠になって、人づてにかつての友だちが母になったことを聞いた。少しずつ遠ざかる小さな街が、新たな薄っぺらい人間関係に覆われて、見えなくなっていく。一人で帰る誰もいない家のドアの、言いようのない重さは、幾時が経とうと慣れなかった。気まぐれに飲み歩いては、名も知らぬ男と夜を過ごした。どうしようもない寂しさを、自分の中に入れられて、掻き回されて、ようやく私はどうしようもない寂しさを忘れられることができる。そうして幾つもの夜を凌いできた。


本当は、好きな人がいる。
その表現は、間違っているかもしれない。忘れられない人がいる。だがどうしても、たとえ天と地がひっくり返ったとしてもその人の気持ちが手に入らないことはわかっていた。だから、ただただ長年焦がれ続けて、何度もこみ上げる衝動を必死で押さえつけていた。その人から、ついこの間、葉書が届き、結婚することを知ったのだ。相手は覚えのない名前で、学生時代の恋人ではないのだろう、と思った。


ひんやりとした布団に入る時、どうしようもなく泣きたくなるようになったのはそれからだった。考えても仕方のないことを飽きもせず、馬鹿の一つ覚えのように考えてしまう。
いつから私の夜は、こんなにも長いものになったのだろう。


先に部屋を出ようと服を着て、髪を整え、薄く化粧を施した。唇から少しはみ出した紅を拭う。彼は寝ている。彼の薄い唇から顎にかけての線が喉の凹凸に歪められて、それらは穏やかに起伏している。薄い呼吸音が何となく私を悲しくさせて、慌てて部屋を出た。ハイヒールの靴ずれが痛む。夜の街のネオンは目を刺すように眩しくて、流れ込む人ごみに足を取られた。看板は無数に人々を照らし続け、星を隠している。店の前で戯れあう学生、指を絡めて歩く恋人達、排水溝に向かって吐くサラリーマン、泣きながら歩く女、道路で寝る中年の男、うろつく客引き、酔いつぶれたホステス、潰れた蛾の死骸と朽ちた灰の匂い。

街を歩いている時の、孤独は冷たく愛おしい。こんなにも人は溢れているのに、この中に私を知る人はいない。私も、知らない。それが何よりも寂しくそれでいて愛おしく感じるのは、きっと、笑って過ぎていく人にも、うつむきながら過ぎていく人にも、どうしようもなく忘れられない人がいて、消えてしまいたくなるような眠れない夜があって、恋しい人を思ってもがくことがあるのを知っているからだ。それがどんな関係であった人だとしても。

交差点の信号が青に変わり、号令をかけられたかのように人々は動き出す。それらは単体で動いているにも関わらず群れをなしているようだ。

自ら孤独を選ぶ人ほど、本当は自分を知ってほしいと渇望しているのかもしれない。一人で夜の街を歩く人を見て、そんなことを想像しては、安堵している。寂しくはない、と否定するくせに、どうしようもなく寂しいのだ。本当はわかっていた。ただに認めたくないのだ。本当に独りになる気がしていた。ただ、誰もにこんな何かを抱えたまま夜明けを待つ日があるのなら、こんな夜も悪くはないと思えた。

もう子供ではないけれど、決して大人ではないとも感じていた。幼い日に憧れたものたちが、時が経つにつれて、もう憧れではなくなっていくと知っていく。昔、焦がれた夜の街も、今では容易く手に入る。こうして、幼き日の夢は死んでいくのだろうか。それならば、夜は短いままでよかった。いつまでも夢を見たままでいたかったと思う。母は、よく、良い子はもうお休み、と言った。それならば私は今、悪い子になってしまうのだろうか。



家に帰ると、制限時間をいっぱいに使われた一本の留守番電話が入っていた。


ー元気にしていますか。私は元気です。葉書は見てくれたかな。式の日取りが決まりました。ぜひ来て欲しいです。私のドレス姿を見たらきっと笑うのだろうけれど。詳しく話しがしたいので折り返し電話ください。今週は夕方過ぎなら家にいます。たまには顔を見て話がしたいね。


私は、嗚咽を漏らして泣いた。



もうすぐ、朝が来る。