パウンドケーキ

 

朝起きて、私は泣いた。

 

なぜ泣いているのかはよくわからなかった。

と言えば嘘になる。心の中に漠然とある不安や不満、後悔が溢れ出たら涙になった。しかし私は、それらを形にする方法を涙にすることしか知らない。言葉なんて不安定なものにする上等な手段を、私は身につけていない。

 

それは何と無くやってきた。毎日顔を合わせ、一緒にご飯を食べ、肌を重ねた男のほんの些細な仕草が、私を寂しくさせた。目が覚めてしばらくスマートフォンの画面を見ていた彼に、漠然とこのままではダメかもしれないという思いが生まれたのだ。前ほどに彼に私の関心が無いこともわかっているし、こんなにしがみついている必要性がないことも十分にわかっていた。わかっているにも関わらず過去の後悔を正当化させることばかり考える。酷い頭の中だ。

 

男は何で女が怒っているかなんてわからない、とは実に便利である。女という生き物は、男が何を考えているか、ほんの些細な隙で気づく。仕草や、言葉の中のワンフレーズや、目の動きで、わかってしまうのだ。

 

私が泣いていても、彼は私の頭を撫でる手のもう片方で、スマートフォンで少年漫画を読んでいた。つまり、そういうことなのだろう、と痛む頭で考えた。止めようとするほど涙というものは流れてくるもので、扱いに困ってしまう。言葉に似ている。一度堰を切ったように体の外に出してしまったら、それはもう止まることを知らないのだ。だから私は代わりに涙を流すのかもしれない。

 

 

一言も交わしたくは無かった。

から、寝室からリビングに出ると、一本煙草に火をつけた。どうしようもないことをだらだらと考えていると、キッチンテーブルにこの間金沢に旅行に行ったとき買ったパウンドケーキが一切れ残っていることに気がついた。チョコレート味のパウンドケーキの上に金箔がのせられたもので、お土産屋のお姉さんに、金の延べ棒買ってきましたよなんて言ったら受けますよ、と言われたのを思い出した。少し高めの値段で私は買うのをやめようと言ったのに、彼がどうしても買って行くと言って効かなかったものだった。

 

煙を吐きながら、あんなに楽しみに買ってきたのに、一切れ残っていたら落ち込むだろうな、とパウンドケーキを一口食べた。

ずっと放置されたいたからか、パウンドケーキは水分が飛んでパサパサしていて、ケーキらしからぬガリガリとした食感だった。もう一口含んで、パウンドケーキやっぱりしっとりとしていないとなあと思った。放っておいたらダメだとわかっていたのに、ラップをかけなかった私たちは馬鹿だ。飛んだ水分はどうしたって戻ってこない。少しずつ、なるべく一気に飛んでいかないように、丁寧に保存していくしかないのだ。

 

私たちは、馬鹿だ。

 

 

 

クラブについて

 

 

 

たまに私はDJをするんですけど、これがまたとても下手くそなわけです。

 

 

ファンクを流したりテクノを流したり、これまた年代も曲調も全然違うものを好んだりしているのですが。

 

 

大きな音が鳴っている中で、名前も知らない男と女が耳を寄せ合って話している姿が、とても虚無的でなにより安堵します。

 

 

肩書きとか、住んでいる街とか、名前すらもいらない。ただお互いだけがそこにいて、大音量で流れるクラブミュージックを避けるようにお互いの声を届けるその姿に、なんとも言えぬ感動を覚えます。

 

 

お互いの、顔とその声と、髪の毛や肌のさわりだけわかれば、ここにはもうそれ以外いらないのです。

 

だから私は、どれだけDJが下手でもここに来ようと思えます。

 

 

彼等がこれから幸せな人生を歩めますように。

 

 

 

終わり

コラム「福」

 

 

僕はいつだって、彼女を泣かせたかった。

しかし彼女はいつでも毅然とした表情で、踵を返すのみだった。僕はどうしても、その瞳の光を、真直ぐに結ばれた唇を、張り詰めた頬を、歪ませたかったのだ。歪んだ彼女から溢れる涙を、掬ってみたかったのである。

 

 

幼い頃からその試みは行われていた。彼女がお気に入りでいつも持ち歩いていたリカちゃん人形を隠した。自慢の長く艶々した髪の毛を結ったおさげを鋏で切った。ままごとの父親役を断った。丁寧に作られた泥団子を踏み潰すなどした。

しかし彼女は泣かなかった。じっと僕を見つめ、あっちにいってよ、と言うばかりで、泣きなどは絶対にしなかった。叩いたりなどすれば、泣いたのかもしれないが、人に暴力を振るうことだけはしてはいけないと、母から懇々と言い聞かされていた僕は、それだけはしなかった。

 

中学校にあがったとき、僕等は同じクラブに入った。そして、14になったころ、僕は、彼女といつも一緒にしていた下校をやめた。あの日、彼女はいつものように体育館の入り口で、自転車にまたがりながら、僕をまっていた。大きめの体操着が、体の成長を覆い隠しているのがなんとも不釣り合いな後ろ姿を眺めながら、僕はその横をクラブの仲間と通り過ぎた。僕の声を聴いて、ヘルメットをかぶった小さな頭がこちらを振り返るのがわかった。ずっと過ぎた後、後ろを振り返ってみても彼女は泣いていなかった。ただ、自転車をこぐわけでもなくその場から動かなかったのを覚えている。

 

 そのまま、僕等は高校生になった。彼女は、いよいよ女らしさを増し、少し時代遅れのセーラー服がよく似合っていた。未経験なのに始めた新体操のおかげか身についた彼女のしなやかな身のこなしが、僕の焦燥感を掻き立てていた。

その頃僕は、早生まれで成長が遅かったつけが周り、背が急激に伸び始めていた。

そして、始めて女の子に告白をされた。

恋人ができた、と教えたとき、彼女は、ふうん、と言っただけでそっぽを向いた。やはり彼女は泣かなかった。泣くと思い込んでいた自分勝手な思い上がりを僕なりに恥じた。そういうことか、とも妙に腑に落ちた。彼女は、クラブの時間だからもう行くねと言って、廊下を駆けていった。

しばらくして、僕と恋人が寝たという噂がひろまった。そうして、もう彼女と目も合わせることもなくなっていた。

 

 

最後に交わした会話は、卒業式だった。離れたくないと、泣いている仲間たちの肩をたたいて慰める彼女の手を引いて少し離れたところに呼んだ。

僕は手短に、東京に行く、とだけ伝えた。彼女は、僕の目をじっと見つめた。幼い頃と変わらない瞳の光があった。静かに頷いた後、頑張ってね、とただそれだけいった。繋いだままの左手が熱く、僕が泣きそうになった。先に手を離したのは彼女で、妙にそれがほっとしたのだった。

 

 

成人式で彼女を見かけた時、声をかけることができなかった。向こうからも声をかけてくることはなかった。それがお互いにとってたぶん1番悲しい方法だと知っていたのに、僕らが言葉を交わすことはなかった。彼女の振袖の裾で艶やかに咲く椿が妙に瞼の裏に焼き付いてどうしようもなく苦しかった。

 

 

 

それからずっと経ってから、僕は結婚した。会社の後輩の気が弱く、優しい女だった。可愛い子供にも恵まれた。女の子1人と、男の子が1人。それでも、僕には彼らと生涯を共にする資格がなかったらしい。あの優しい人は、心があまりにも澄みすぎて、この世界で生きるには少し真っ直ぐ過ぎる人だった。どんどん病んでいくあの人から僕は逃げ出した。自分までが蝕まれるような、恐ろしい混沌と、後悔。妻の実家に頭を下げたときの首の皮を引きちぎられるような、あんな気持ちがあるなんて、僕はこの歳になるまで知らなかった。

 

孤独がこんなにも、僕らのそばにいて、いつだって共にあることを知らなかった。5年前に他界した父に会いたい。まだ病まれていなかったころのあの人に会いたい。息子と娘に会いたい。姉さんと新しくできた赤ん坊に会いたい。

 

彼女に会いたい。

 

 

ああ、彼女は笑うだろうか。

 

こんな僕を見たら。

 

どうか泣いてはくれないだろうか。

馬鹿な人ね、可哀想。と思い切り同情してくれればいいのに。

 

 

 

何もなくなった僕が地元に帰ると、彼女は、あの頃と何も変わらないそぶりで、庭の花に水を遣っていた。僕のことを見るや否や、驚いたような顔をして、駆け寄ってきた。久しぶり、とか、今何してるの、とか、たわいもないことを話す彼女の声にゆっくり耳を傾けていた。

 

 

ずっと言えなかったことがある。

 

 

僕がそう切り出すと、君の顔はみるみる歪んだ。

 

 

やっとその一言が言えたとき、君は泣いた。

 

 

 

これが僕の求めていた幸福なのだと。

 

 君の塩辛い涙を掬い舐めあげながらそれだけを思った。

 

 

 

終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラム「夜」

 

 

幼い頃、私の母は寝る前に絵本を必ず一冊読んでくれた。
一冊だけ読んでほしい本を選べるのだが、それはだいたい五つ離れた妹が選ぶのだった。そうして、私と妹は片方ずつ母の腕の中に入って、母の胸にぴったり頬を寄せて読み聞かせを聞いたものだ。母は、美しいお姫様はしとやかに、強い狼は声を屈めて絵本を読んだ。日が暮れるまで外で遊び呆けた私たちは、絵本に夢中になっているうちにいつの間にか眠りについている。まどろむ私の頭を撫でながら、よく母は言った。良い子はもうお休み、と。




目が覚めた時、彼はまだ寝ていた。
夏の終わりの夜は、少し肌寒くて、そのくせ乱れた髪が首にまとわりつくような湿気を含んでいる。私は床に捨てられたシャツを肩に羽織ると、手探りで煙草を探して火をつけた。紙が焼ける音がする。ライターの灯火に浮かび上がる時計の針は、23時を過ぎたところを示していて、まだ夜は始まったばかりなのだ、とぼんやり思った。暗い部屋に、月の光が差して、煙が透ける。プールの底に沈んだ時の光景かのように、光と影が交わっては揺れて、視界の端でゆらゆらとする。


就職を機に上京して5年、半年前に二十二歳になった。この5年間で、お酒を知って、煙草を知って、自分より骨ばった生き物を知った。毎月のように来る母親からの手紙も今は屑篭の中で丸まって眠っている。地元の友達とも少しずつ疎遠になって、人づてにかつての友だちが母になったことを聞いた。少しずつ遠ざかる小さな街が、新たな薄っぺらい人間関係に覆われて、見えなくなっていく。一人で帰る誰もいない家のドアの、言いようのない重さは、幾時が経とうと慣れなかった。気まぐれに飲み歩いては、名も知らぬ男と夜を過ごした。どうしようもない寂しさを、自分の中に入れられて、掻き回されて、ようやく私はどうしようもない寂しさを忘れられることができる。そうして幾つもの夜を凌いできた。


本当は、好きな人がいる。
その表現は、間違っているかもしれない。忘れられない人がいる。だがどうしても、たとえ天と地がひっくり返ったとしてもその人の気持ちが手に入らないことはわかっていた。だから、ただただ長年焦がれ続けて、何度もこみ上げる衝動を必死で押さえつけていた。その人から、ついこの間、葉書が届き、結婚することを知ったのだ。相手は覚えのない名前で、学生時代の恋人ではないのだろう、と思った。


ひんやりとした布団に入る時、どうしようもなく泣きたくなるようになったのはそれからだった。考えても仕方のないことを飽きもせず、馬鹿の一つ覚えのように考えてしまう。
いつから私の夜は、こんなにも長いものになったのだろう。


先に部屋を出ようと服を着て、髪を整え、薄く化粧を施した。唇から少しはみ出した紅を拭う。彼は寝ている。彼の薄い唇から顎にかけての線が喉の凹凸に歪められて、それらは穏やかに起伏している。薄い呼吸音が何となく私を悲しくさせて、慌てて部屋を出た。ハイヒールの靴ずれが痛む。夜の街のネオンは目を刺すように眩しくて、流れ込む人ごみに足を取られた。看板は無数に人々を照らし続け、星を隠している。店の前で戯れあう学生、指を絡めて歩く恋人達、排水溝に向かって吐くサラリーマン、泣きながら歩く女、道路で寝る中年の男、うろつく客引き、酔いつぶれたホステス、潰れた蛾の死骸と朽ちた灰の匂い。

街を歩いている時の、孤独は冷たく愛おしい。こんなにも人は溢れているのに、この中に私を知る人はいない。私も、知らない。それが何よりも寂しくそれでいて愛おしく感じるのは、きっと、笑って過ぎていく人にも、うつむきながら過ぎていく人にも、どうしようもなく忘れられない人がいて、消えてしまいたくなるような眠れない夜があって、恋しい人を思ってもがくことがあるのを知っているからだ。それがどんな関係であった人だとしても。

交差点の信号が青に変わり、号令をかけられたかのように人々は動き出す。それらは単体で動いているにも関わらず群れをなしているようだ。

自ら孤独を選ぶ人ほど、本当は自分を知ってほしいと渇望しているのかもしれない。一人で夜の街を歩く人を見て、そんなことを想像しては、安堵している。寂しくはない、と否定するくせに、どうしようもなく寂しいのだ。本当はわかっていた。ただに認めたくないのだ。本当に独りになる気がしていた。ただ、誰もにこんな何かを抱えたまま夜明けを待つ日があるのなら、こんな夜も悪くはないと思えた。

もう子供ではないけれど、決して大人ではないとも感じていた。幼い日に憧れたものたちが、時が経つにつれて、もう憧れではなくなっていくと知っていく。昔、焦がれた夜の街も、今では容易く手に入る。こうして、幼き日の夢は死んでいくのだろうか。それならば、夜は短いままでよかった。いつまでも夢を見たままでいたかったと思う。母は、よく、良い子はもうお休み、と言った。それならば私は今、悪い子になってしまうのだろうか。



家に帰ると、制限時間をいっぱいに使われた一本の留守番電話が入っていた。


ー元気にしていますか。私は元気です。葉書は見てくれたかな。式の日取りが決まりました。ぜひ来て欲しいです。私のドレス姿を見たらきっと笑うのだろうけれど。詳しく話しがしたいので折り返し電話ください。今週は夕方過ぎなら家にいます。たまには顔を見て話がしたいね。


私は、嗚咽を漏らして泣いた。



もうすぐ、朝が来る。